ネットに読解

「ラジオを聞いても聞き取れない人が増えている」という話がある。
背景として、文字情報に慣れているという事が挙げられる。
耳で聞くというよりも、SNSで扱う短文的な文章や動画でのテロップや字幕の方に慣れてきているからだとされる。

さて。
文字だらけのネットならどうか、という個人的な想像の話。

まず、個人的に文字や文章には3段階あると考えている。
文字を文字として認識する識字
それを読むことができる可読
読んで分かる読解
の3段階である。

近頃のネットを見ていると「見出しだけ読んで分かった気になる」というように
文章は読めても、読解まで至っていないように見えることがある。

ネットでは文字を読んでもらうために、文字自体に装飾を施す事がある。
フォントを大きくしたり、色を変えたり線を引いたり…と、動画のテロップや字幕と同じなのだ。
読んでもらうには目を引かなければならない、そういった工夫の現れだ。

しかし、そんなテロップや字幕の方に慣れてきてるおかげで、ただ目を引くだけの文字になっており
読むことはできても、そういうシンボルとして認識されつつある。
いつの間にか、ネットにおける文字も読むものから演出の1つになっており
キャッチーであれば良く、しっかり読まなくてもまあ大丈夫という風潮が少なからずある。
そのためか、丁寧さや固さのある長い文章は読み飛ばし、読んだつもりになる。
(長ければ長いだけ良いと言う話でもない)

 

大抵のSNSは短文で構成される。
故に、文脈は二の次であり、いかに短く瞬発力のある文を発信するかである。
短い文に慣れてしまったがため文全体を読まず、文脈や行間を読むことがおざなりとなっている。
例えば、ごんぎつねの最後のシーンで「ごんがどうなった」という問いに「生きている」と答える人がいるという。

何故か。

描写がどうであれ、「ごんが死んだ」とは書かれていないので生きていることになる。
これで読解できたというのは、無理がある話だ。

ネットにおいては「この人はAと書いていないからBという考えを持っている人だ!」
など書いていないだけなのに、こじつけられる事もある。
こうなると、読解というより想像力の方に目が行く。

 

かく言う私も、140字程度の文章にしか触れておらずで
気がつけば活字が読めなくなっている。
自身が読解までできているかと言われれば、自信は無い。

 

読むことと理解することは同義ではない。
文章を読み、噛み砕き、文の繋がりを見極めた先に理解がある。

 

読解力の養い方を、聡いAIにでも聞いてみようか。
きっと親身になってくれるだろうから